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第398号~覚悟はしてましたが、とうとうその日がやってきました。 ~
2021 / 05 / 20 ( Thu )
 まず始めに、神戸市で作成された「障害者差別解消法」の啓発ポスターが、この度、新しく生まれ変わり、併せて啓発リーフレットも改訂されました。本誌8~11ページに掲載しておりますのでご覧ください。(リーフレットの表紙の部分がポスターになっております。)
「障害者差別解消法」は、国連の「障害者権利条約」批准にあたり、平成28年に施行された法律ですが、「不当な差別的取り扱いの禁止」と「合理的配慮の提供」が求められています。
この法律には、法施行3年後の見直しが規定されておりましたが、平成31年からの障害者政策委員会での検討を経て、障害者差別解消法改正案が先月、衆院内閣委員会で可決されました。
改正案には、全事業者による合理的配慮の義務化(現在は行政のみ義務、民間事業者は努力義務)が盛り込まれております。施行期日については、公布日から3年以内となっておりますが、「全国手をつなぐ育成会連合会」を含む多くの団体は、1年程度での施行を要望しております。
改正案は、今国会で審議されるそうですが、実現すれば、「障害者差別解消法」が大きく育っていく第一歩になることは言うまでもありません。
 
 次です。多くの方は、既にご存知のことと思いますが、非常に辛く悲しいお知らせです。
6ページにも掲載しておりますが、当会の副会長であり、併せて、当会の関連団体である新緑福祉会の理事長であった平田健次様が4月27日ご逝去されました。
 平田理事長が、当会の理事、そして副会長に就任されたのは、平成27年6月のことでした。ちょうど丸6年間のお付き合いとなりますが、初めてお会いし、お話ししたのは、実は随分前で、平田さん(以降、こう呼ばせていただきます)が、まだ神戸市の職員さんだった頃に遡ります。
それは、今から20年以上も前で、私が垂水支部の支部長を務めていた頃のことです。
夏休みになると垂水小学校の校庭では、毎年夏祭りが行われていました。垂水支部では啓発と活動資金確保を兼ね、例年、綿菓子や焼きそば等の模擬店を出店しておりました。
その夏祭りは、多分、私が支部長になって初めての対外的な大きな行事であったと思います。
区役所や他団体の方等、大勢の方がご挨拶に来て下さいましたが、初めての経験であったせいか、私は気疲れと共に、緊張感で一杯だったように記憶しています。そんな時、私の前に現れたのが平田さんでした。始終ニコニコされながら、親し気に話しかけて下さり、気が付けば、その時抱えていた緊張感も、疲れも、どこかに吹っ飛んでしまったように思います。 

次にお会いしたのは、息子が通っていた青陽高等養護学校(現:青陽須磨支援学校)で行われた「土曜ふれあい活動」の時でした。
当時、私はPTA会長だったのですが、休日の支援活動として、バスを借り切り、生徒や保護者、先生と出かけたのですが、何とそのバスの中に、あの時と同じ、満面の笑みを浮かべた平田さんが、障害のあるご子息と共に座っておられたのです。平田さんが同じ障害児を持つ「親」であること、そして、息子より2学年下にご子息がおられることを、この時、初めて知りました。
その後も運動会や各種行事で何度もお会いしましたが、本格的にご一緒するようになったのは、平田さんが新緑福祉会の理事長に就任されてからです。

 その頃、国では、半世紀以上続いた「措置制度」に変わり「支援費制度」が導入され、まさに新しい福祉の時代が始まっておりました。国の方針は、「入所施設は造らない、施設から地域へ」という流れになり、「障害があっても、地域のグループホームやケアホームで」という事が盛んに叫ばれるようになりました。しかし、軽度者はともかく、重度者はどうすればいいのか不安に思っている時、障害者総合支援法成立の際の衆参両院の付帯決議において、障害者の重度高齢化や親なきあとを見据えた対策として、「30人規模の小規模入所施設」という言葉が、突如として浮上してきました。育成会では建設に向け即座に新緑福祉会に働きかけました。そうです、ここからです。「えみのき」建設に向けて、平田さんと共に歩み始めた歴史が始まりました。
まず始めに、連名で、久元市長に要望書を提出しましたが、この頃、国では、小規模入所施設は、障害者の地域生活を支えるための核となる施設(後の地域生活支援拠点)とし、住まいの場についてはグループホームを位置づけるという考えが示され、更には、「障害者総合支援法」の3年後の見直しでは、重度高齢化の障害者はグループホームで暮らし、軽度者は「自立生活援助サービス」を使ってのアパートでの一人暮らしをという明確な方向性が打ち出されました。

 私たちは「名称は何であれ、現存する入所施設以上の機能を持った住まいの場を造ろう!」を合言葉に、育成会と新緑福祉会の担当者が集まったワーキングチームを結成、準備を進めました。
建設に向けての地鎮祭は、長田神社で執り行われましたが、梅雨時ということもあったせいか、雷が鳴り響き、一時、土砂降りとなりました。しかし、地鎮祭が終了すると嘘のように晴れ渡り、平田さんと「雨降って地固まる。厄除けができたね」と言葉を交わしたのを今でも覚えています。
 
そして、私たちの長年の悲願であった「えみのき」竣工式の直前、平田さんの肺がんが発覚し、竣工式当日は体調を崩され、私が変わって、多くのご来賓の前で挨拶させていただきました。
この時から、平田さんの「がんとの闘い」が始まりました。抗がん剤治療等、お辛いことも多々あったと思いますが、平田さんは、そんなそぶりは微塵も見せずに、初めてお会いした時と同じ「笑顔」で、いつも接して下さいました。
「えみのき」入居者募集の際には、20名の定員に対し大勢の応募があり、多くの方のご意向に添うことが出来ませんでしたが、その時、平田さんと私は、「第2第3の住まいの場を絶対に造ろう」と、固い約束をかわしました。
昨年は、会員さんのご支援があり、第2の住まいの場として、中軽度の女性向けの「フルール西鈴蘭台」を開設することができました。続く第3の住まいの場の建設に向け、少しづつ準備を進めていた矢先、平田さんは、とうとう帰らぬ人となってしまいました。
お亡くなりになる数週間前の会議では、トレードマークの笑顔は消え、お辛そうな表情をされていましたが、結局、その姿が、私が見た最後の平田さんとなってしまいました。
けれども私は信じています。数年先の「えみのき」に続く住まいの場の竣工式の際には、満面笑みの平田さんが、きっと、どこかで見ておられるのではないかと・・・。
その日を迎えるために、会員の皆様、今まで以上のご支援ご協力をよろしくお願いいたします。平田さん、ありがとうございました。どうか安らかにお眠り下さい。合掌。(会長 後藤久美子)
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